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スミン君

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さー今日からスミン来沖!
9月の全国ツアーが台風で延期になり
スミンファンは残念でしたが、スミン、カチンバで年内にと熱く願い実現しました。
台湾と沖縄の架け橋になる今回のチャレンジ楽しみだ!

仲間の石原さんがスミンの紹介を訳してくれたので是非最後まで読んでね!

2013.12.3-4.【インタビュー】音楽を語るスミン:原住民としての名前を用いて電子音楽の振動の中に民族文化を引っ提げて華々しく登場。
 アミ族の有名な歌手スミン(Suming Rupi)が同族の友人たちと 12 月 7 日に台東の都蘭部落にある「都蘭スタジアム(実のところ、都蘭中学体育館なのだが…)」に登場することは周知のとおり。これは、台湾で初めて「原住民族」が主催する大型音樂祭である。
このタイミングで、アミ語でつづられた伝統の歌ではなく中国語のアルバムをリリースする。都蘭部落に集う多くのファンが、「スミンは変わったのか?」と、固唾を飲んで見守っている。
音楽祭を前にして、我々はスミンを訪ねて皆さんに音楽祭の裏話や彼の将来の方向性などについて読者のみなさんにお伝えする。

訪問当日、スミンは原住民族の意匠であるカンムリワシがデザインされた青いシャツを着て現れた。まるでアミ族の勇者が持つ翼を象徴しているかのようだ。スミンはステージ上よりも多くの笑顔を見せながら、音楽と訪問当日、スミンは原住民族の意匠であるカンムリワシがデザインされた青いシャツを着て現れた。まるでアミ族の勇者が持つ翼を象徴しているかのようだ。スミンはステージ上よりも多くの笑顔を見せながら、音楽と創作に話が及ぶと、彼の言う「美」式情熱を込めて語り始めた…。
2010年、台東の都蘭出身のスミン・ルピが彼自身の自己紹介とも言えるアルバム『Suming』でデビューした。それに続いて2012年に『阿米斯AMIS』で彼自身のアミ族の誇りを歌いあげ、2013年の夏には三枚目のアルバム『美好的日子』で日々の暮らしを悠々と歌い上げた。この冬には中国語で歌う『Amis Life 美式生活』を発売し、この島の多くの人が聞き取れる言葉を使ってアミ族の生活と幸せについて分かち合おうとしている。
 スミンの音楽はかくのごとく、彼の経歴をなぞるかのようだ。

失意のアミ族賞金ハンター
 当時の創作に多少の味わいがあるとすれば、それは現在の作品からも隠し味として感じ取れるものだ。それは即ち「失意の感情」だ。
 学生時代からシンガー・ソングライターとして活動を始めたスミンはたちまち名を挙げて各賞を総ナメにした。本人は冗談めかして「賞金ハンター」を自称する。才気溢れるこの男は、他の参加者が一曲だけ持ち込むのに一人で毎回5曲ぐらいは持ち込んでいたという。そのせいで、主催者から投稿禁止になったこともある。大学に入ってから本格始動し、曲をプロ歌手に提供するようになった。大学2年のときに台湾歌謡界の大御所・齊秦に提供した『真的是我』で印税第6位となり、大学生としては破格の収入を手にした。スミンは当時を「コンテストに出るのも曲の公募に応じるのも、すべて思いのままで本当に楽しかった」と振り返る。
 スミンは当時中国語で作詞していた。アミ族の文化や彼自身の背景については全く無関係に、恋愛にまつわる歌を多数書き上げた。
「あの頃の僕の作品には、〈失意の感情〉が籠っている」と、スミンは語る。
例えば、『我在那邊唱』の歌詞をみると:
“街には太陽の温かさがなく
 道には故郷の草原の平穏さがない
  該当は僕が迷い続けてきた方向を照らしている
  僕はここにいるのに”
このような「あらかじめ失われた感覚」は、きっと彼の生い立ちに由来するのだろう。

帰るべき家がなく、暗い部屋で過ごした旧正月
 ある年の旧正月、誰もが家庭の団欒を楽しむ傍らで、彼は一人きりでやるせない気持ちを抱え、三日間暗い部屋に閉じこもり続けた。その頃彼の家は経済状況が悪かったので、帰省するのが苦痛だったのだ。「家はあっても帰れなかった。帰りたくなかった」と彼は言う。
 両親は彼に早く働いて家にお金を入れることを望んだ。高校を卒業すると同時に内装業者を紹介され、花蓮で賃仕事に就いた。その後、母親の紹介で40歳のおじさんと共に働き、来る日も来る日も天井板を貼り続けた。「こんなふうにして僕も40歳を迎えるのか」と考えたスミンは必死に勉強して、必死の思いで國立台灣藝術大學に合格した。
 台北に出てきて勉強することを家族は全く理解してくれなかった。休暇中は寄宿舎が閉まってしまうため、居場所がなくなってしまう。華僑のクラスメートが「なんで帰省しないの?残っている台湾人は君だけだよ」と不思議がった。
 せっかく合格した大学も、やはり家の事情で休学せざるを得なくなった。そのせいで故郷に帰って豊年祭に参加したときに、自分がアミ族であることを自覚するようになり、民族と部落への帰属心が芽生え始めた。そして2002年に阿新らとバンド「圖騰樂團」を結成し、自らの文化にまつわる曲を作り始めた。

電音の浸透力によって民族音楽が境界を超えた
「電音をアミ語で歌い、アミ族の文化と可能性を押し広げた」というのが多くのファンがスミンについて連想することだ。しかし、スミンは「電音は僕の本質じゃない」と言う。「僕は苦心して学んだ。流行りの音楽には浸透力があり、電子音楽は原住民族音楽と衝突してしまう」
 それはいったいどういうことだろう?
 スミンは振り返る。初めて電音の威力を感じたのは、台湾で大ヒットしたインド映画『貧者と大富豪』のあと、彼が温嵐(タイヤル族の歌手)たちとディスコに行った際、人々がたとえ耳慣れないヒンドゥー語や韓国語の曲であっても、電音の魅力によってノリノリで楽しんでいるのを見たときのことである。彼は家で韓国語を知らない妹が韓国歌謡に魅せられて韓国語を学び、韓国語で演唱会に参加したことを思い出した。
 「なんということだ」彼は驚きのあまりつぶやいた。「どうしてライブ会場で激しい電音を鳴らせないのか。どうして原住民族の電音が許されないのか?」
 そうやって彼は電音の可能性を模索し、流行音楽による民族語の浸透力を試してみようと考えるに至った。「音楽に国境はないというが、当時僕はそれを疑っていた。だから、それは大きな挑戦だったんだ!」
 自分の音楽が人々に受け入れられるかどうかわからないまま、彼は長きにわたって試行錯誤した。スミンは一曲作るごとに家族や部落のpakarongay(部族の青年会)に聴いてもらった。すると、多くの作品が彼らから「とても変だ」と指摘された。そのため、それら多くの作品はファンの元に届けられなかった。
 スミンは更に「アミ族の波濤のようなリズムと起伏の鮮明な伝統的なメロディーに比べて電子音楽は旋律が平坦だ。そのせいで、族人たちには馴染めなかったのだろう」と解釈する。「僕のアミ語の教師でもある父は、電子音楽が平板すぎて奇妙だと感じたそうだ。でも、曲に挿入したHo Hai Yanというアミ語の歌詞が彼の感性に突き刺さり、すごく矛盾を感じたと言うんだ。」
 それでも、スミンは今もトップシンガーとしての成績を確立している。「だから、今じゃ良い曲だよって言ってくれるようになったんだよ」と、スミンは笑う。
 曲を作るたびにダメ出しをされても、スミンはくじけなかった。「pakarongayは僕にとってかけがえのない実験場なんだ。彼らは原住民族の生活背景もわかるし、若者として世情にも敏感だ」「彼らの反応は僕に大きな刺激を与えてくれた。好き嫌いがはっきり表れるからね」

原住民族は自らの名前を取り戻すだけではなく、祖先の名誉を舞台で輝かせる
 スミンは音楽が原住民族のありようや地位を認識する大きなきっかけとなったと思っている。国民党によって「山地同胞」という忌まわしい呼称を与えられ、中国風の名前を使うことを余儀なくされてから数十年が過ぎ、1994年にようやく「原住民※」という正しい名前を勝ち取った。(※日本語では「先住民」と訳されるが、中国語の「先住民」は「駆逐された民族」というニュアンスになるため、「原住民」のほうを主張する)
そして、ピナン族の歌手・張惠妹1)が、まさにその年に『五燈獎』で頭角を現した。1996年にアミ族歌手の郭英男の事件2)があり、台湾社会はいっそう原住民族のもつ芸術性に関心を寄せるようになった。
1)張惠妹: 海外でも活躍する台湾の国民的歌手。原住民であることを表明し、民族名Kulilay Amitを名乗ったことが文化的衝撃を与えた。2002年のTIME「今年の百人」に掲載されたアジア人は、ジャッキー・チェンと張惠妹の二人だけ。2)民族名Difan 。彼の歌声がアトランタ五輪のテーマ曲に無断使用された事件のこと。
 スミンは「多くの原住民が政治家として、あるいは芸術家として出自を隠したがっていた時に、張惠妹は大らかに「私は台東のピナン族よ!」と表明した。彼女の歌は彼女の出自と一体となり、多くの族人たちに絶大な自信を与えた。
「張雨生も原住民だったって、知ってる?彼はタイヤル族なんだ」
「原住民族の先達・張惠妹と張雨生の合作は絶妙な融合だった!彼らは新しいテーゼを掲げて、一つのモデルを示した。そのことが、以後の原住民の創造性に大きな刺激を与えたんだ」
そうやって原住民歌手の多くが出自を明らかにし、脚光を浴びるようになった。あれから10年、台湾の歌謡界にはさらなる契機が訪れている。―-それは、誇りを持って民族語でアルバムを作成するという傾向だ。
 スミンにとって忘れがたいのは、2010年にソロアルバム『Suming』を出した際に、台北で二時間にわたるコンサートを行ったのだが、そのすべてがアミ語で演出されたにもかかわらず、千人以上の聴衆を集めた経験だ。彼は音楽が文化の国境を超えることを体感した。「お客さんは自分の知らない言葉であっても共鳴してくれたんだ」—この経験がスミンの考え方を変えた。それ以来、彼は故郷に戻って音楽活動をしようと思うに至ったのだ。
「僕たちは兵役で二年も社会を離れて国家に奉仕しなくちゃいけない。同じように、すべてを失って故郷に奉仕することだって不可能じゃないはずだ」

沖縄や鹿児島の音楽祭のように、ブラジルのカーニバルのように…これは僕らの都蘭音学旅行だ
 Amis音楽祭を挙行するにあたって希望したのは地元の部落に産業を興す、つまりは地域の若者に職を与えることだった。スミンは言う。「部落には若者が必要なんだ」「若者がいなければ文化が継承されないばかりか、地域での生活が成り立たなくなる。お年寄りが病気になった時、だれが病院へ連れて行くんだ?」
 そのため、この音楽祭の主役は部落の人々でなければならないと思っている。ただ、地元の人々を主体にした音楽祭の挙行には、様々な困難が待ち受けていた。
 実際、達卡鬧や阿洛らの著名な原住民アーチストを招聘するにも関わらず、スミンはプログラムの印刷さえ考えていなかった。「有名人を目玉にした音楽祭じゃ、ほかのコンサートと変わらない」「沖縄音楽祭や鹿児島音楽祭では、地域の文化が重視されてて、地元の団体が主人公だった。僕にとってはそれがモデルなんだ」
 スミンの地元・都蘭には、二つの魅力がある。自然と人文だ。「僕たちは地域に根差した原住民で、ここにはたくさんの芸術家がいる」
 とはいえ、言うは易く行うは難し。彼の敬愛する族人たちに音楽祭の概念を伝えることさえ容易ではなかった。Amis音楽祭について理解してもらうために、今年の4月と5月がまるまる費やされた。スミンはふるさと都蘭で四つのミニコンサートを開いたが、最初はたった50人しか集まらなかった。最後にようやく200人を集めたが、そのときスミンは茫然として悟った。「地域のじいちゃん・ばあちゃんにはコンサートという概念がない。豊年祭みたいなものだと理解してもらった」そうして、族人の参加者を募っていった。
 また、この音楽祭の7名のスタッフのうち、スミンが担っていたのは最も大変な役回りで、音楽の創作に専心してきた彼が公文書の作成や税金問題を処理しなければならなかったし、部落住民との意思疎通を図るという難事業も彼にとっては一大挑戦だった。「トイレを水洗にすることまで考えなくちゃいけないんだ」とスミンは言う。
 今回のインタビューで、我々が何度も耳にした言葉は「Amis音楽祭の実行は難しい。本当に大変だ」という言葉だった。

イベント自体は赤字になっても構わない。族人がこれで収入を得ることが重要なんだ
 音楽祭の実行には幾多の困難が待ち受けているが、スミンは公的機関の援助を固辞している。多くの人はスミンが公的な援助を求めるべきだと考えるが、彼自身はそう思わない。原住民部落を運営する際に、しばしば担当部局のKPI指数を満たすために不自然な結果を甘受している。「街灯を設置する代わりに壁をきれいに塗って、地域の活性化に役立ったと言わされる」「一時的な資金投下と永続的な経験の積み重ねは同じではない」
(このあたり、沖縄に対する日本政府の「特別措置」を連想しますね)
 政府の補助をあてにせず、民間の善意に基づいてAmis音楽祭が実施される。スミンは今回の活動の成果を丁寧に記録して、来年は更に多くの民間からの支援を勝ち取りたいと思っている。「音楽祭を企画した先輩たちに尋ねたことがある。彼らはいくら儲かるかを考えず、自腹でいくらぐらい支出するかを考えていた」
 Amis音楽祭は、収益が目的じゃない。地域の町おこし、部落の発展に寄与することが目的なのだ。スミンの意図は明らかだ。Amis音楽祭という行事を通じて多くの人々に都蘭を知ってもらい、アミ族について、また部落の文化について理解を促すこと。それは都蘭の全ての人々が主役となることなのだ。
「なぜAmis音楽祭と名付けたか?それは、みんなに『阿米斯(アミ族)』の自覚を持ってもらいたいからだ。
彼の話では都蘭部落は3 – 5 月と10 – 12 月の観光客が少ないそうだ。今年の12月にAmis音楽祭を行い、3月に部落小旅行を行えば、都蘭部落は一年を通してにぎわうことができるだろう。
スミンは来年の春、音楽を軸にした部落小旅行を構想している。「来年の3 – 5 月に隔週の土曜日に百人ぐらいの小型コンサートを4回やりたい。地元民だけが出演するコンサートだ」「そうやって、訴求力のある人材を育てていけば、年末のAmis音楽祭の参加者の力量を上げることができる」
 活動そのもの以外に、スミンは既に部落小旅行に相応しい住宿や膳食の提供についても構想している。「地元のお酒や糯米、醃肉などを観光客に提供することで、長期的な地域の振興に役立つだろう」ということだ。
来年から活動を始める「都蘭小旅行」計画は、部落を永続的に発展させるために一歩ずつ足場を固めている。もし、あなたがブラジルのカーニバルを見たことがあるのなら、来年の部落小旅行に期待してほしい。

好評だった日本ツアー、今後も継続したい
 部落のためという目標以外には、どのような計画を立てているのか?
「外国語を学ぶこと。英語でもいいし、日本語でも」
もともと若木信吾監督が2009 年に撮影した『TOTEM song for home』が日本で放送された後、スミンは日本でも注目を集めることになった。今年初めて日本ツアーを行い八つの都市の11会場を飛び回った。アルバム『美好的日子』の民族語の歌に対する反応が意外なほどに良かったという。
「言葉はわからなくても、日本の聴衆たちは僕と共に歌ってくれる。彼らはひとたび気に入ってくれると再び来てくれる」「ツアーと言うのは消耗するものだけど、そんなことはなかった」
 外国語が上達すればスミンの音楽は海外市場にも広がっていくだろう。中国語のアルバムの次は西洋古典音楽…アミ族の青年は一歩ずつ前進している。
 スミンは今年の年末に中国語のソロアルバム『Amis Life 美式生活』をリリースする。そのことに、族語の曲を愛するファンは抗議している。
「スミンは変わったのかと非難されるのは覚悟してた。でも、歌ってるのはアミ族のことで、アミ族の生活をより多くの人々に、彼らのわかる言葉で伝えたいからなんだ」
 「例えば、〈阿魯夫〉といううたはアミ族が恋人に捧げるバッグ(アミ語でalofo’)のことで、それを中国語で紹介しただけなんだ」※八重山のティサージみたいなものか?
「中国語でアミ族のことを歌うのは、僕にとっても大きな挑戦だった」「僕のファンはそんなに多くないから、ファンの輪を広げて交流できるようにしたい」「多くの人がアミ族の歌を理解して、それを分かち合えたほうがいいと思うんだ」
だから、一度彼の中国語の歌にも耳を傾けてみてほしい。
 スミンは中国語にチャレンジするだけでなく、まったく新しい計画を胸に秘めていた。それは、西洋のクラシック音楽だ。
 彼は言う。このM 型社会のもう一方の端には嚴長壽先生のような人がいて、彼らも原住民族の文化に関心を寄せている。「彼らは流行歌も電音も聞かない。でも、クラシックなら聞こうとするんじゃないかな?」

 ファンを代表するつもりはないが、編集者の私も彼のファンの一人である。二時間ほどのインタビューを通して、蟹座のスミンがステージ上とは異なる一面を垣間見ることができた。彼は細心で、粘り強い人なのだ。
 読者諸君、原住民族は歌ったり踊ったりしているだけだと思うのか? いつも原発への反対運動や抗議 BOTばかりしているように思うのか?
 眼前のアミ族青年は自分の足場を正確に理解して、一つ一つの問題に丹念に向き合っている。家族を守り、地域を愛する力で、伝統を尊重し未来を切り開き、最善のバランス点を探し当てようとしている。彼は真っすぐな道を、一歩一歩踏みしめながら歩いている


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